「スポリヴィト・カマニ(訳:鼻水の石)」コプリフシティツァの人口が12000人近かった17~19世紀には、畜産や手工芸は主要な産業にはなっておらず、男性の中には出稼ぎに行く者が多くいました。コプリフシティツァから数kmにあるパザルジクとプロヴディフへの道は、出稼ぎ労働者たちをツァリグラートと中東へ導く道で、ストレルチャに下りる前に石造りの地域を通過しました。家族は父や兄弟をここに向かう長く危険な旅に送り出したものです。別れは辛く、長年にわたり多くの涙が流されました。そのためこの石地帯には痛烈に皮肉な名前「スポリヴィト・カマニ(訳:鼻水の石)」がつけられました。