カルロヴォにおける最初の生命の跡は、紀元前6000年の新石器時代に遡ります。新石器時代の定住の跡は、町の西ヤサテペ地区にあります。トラキアの部族は紀元前6世紀から起源後1世紀までの後期鉄器時代に、現在のカルロヴォ周辺に住んでいました。研究者によると、民族用語では彼らはまとめてオデッセイと呼ばれます。
現在の町の近辺に、いくつかの集落や要塞が存在していました。カルロヴォスコ・カレは、4世紀から6世紀にあった小さな古代後期の要塞です。「ベシュブナル」公園の上、山の斜面に位置します。スシツコ・カレ - はバルカン山脈の南側の斜面、現在で言う「スシツァ」地区の東にあり、12世紀から14世紀まで存在していました; カルロヴォの北東、礼拝堂「セント・トリニティ」の上にある要塞もまた、12世紀から14世紀まで存在していました。
(茂みに包まれた)クルシュムモスクは、1485年にオスマンの将軍でありカルラの息子、アリベイによって建てられました。現在のクルシュムモスクは、町で最も古くから保存された文化的建築物です。
現在カルロヴォの町には約115軒の家が文化的記録として存在しています。国家解放時に、町では30種以上の手工芸が開発されました: ガイタンツイイストヴォ(繊維の編み物)、バラの育成、バスマドツィユストヴォ(繊維に描くアート)、銅の生産、皮製品、織物、金細工製品、絹の生産、等。手工芸と貿易の拡大により、カルロヴォは経済的に繁栄した町として台頭しました。それはオスマン・トルコ帝国の国境をも越え、ブルガリア製造業者と貿易商
の手にわたったのです。ピュリエフ、ゲショフ、ハツジミトロフ、ジョルジエフ、その他の大商人たちが、オスマン・トルコ帝国のあらゆる市場でワラキア、モルドバ、ロシア、フランス、イギリス等との
大規模商業活動に携わりました。
17世紀には「手紙の達人の男」であり教師であるアヴラム・イェレイ・ジミトレビッチがここにおり、
カルロフ・アジャラ文学学校の校長を務めていました。国家解放時にはカルロヴォは教育と知識の重要な中心地でした。国家解放の重要な学者や教育者がここで働いていました: ライノ・ポポビッチ、ボチョ・ペトコフ - フリスト・ボテフの父、フリスト・ポプヴァシレフ、ブライコ・ハツジゲノフ、ジミター・ポポフ、そして多くの他の人々。
19世紀半ばには「聖母の睡眠」と呼ばれる2つの教会が建てられ/1851年に復元され/1859年にはそこでヴァシル・レフスキーが執事と「セント・二コレイ」に任命され/1847/そこで1858年に初めてスラブ人の文字のお祭りが開催され、1878年1月16日には最初の町議会が選出されました。ヴァシル・レフスキーの母、ジーナ・クンシェヴァのお墓は教会の庭にあります。
1892年にカルロヴォは第1回プロブディフ展示会に出典しました。パビリオンはエブロジー・ジョルジエフの資金で建てられ、地元の産業や工芸の製品が展示されました。カルロヴォの出典者は金3、銀19、銅13のメダルを授与され、2つの名誉賞も受賞しました。
1926年にはブルガリア最初の水力発電所、スタラ・レカ水力発電所が建てられました; プロブディフ-カルロボ鉄道/1933/ワインセラー/1933/銀行、工場、そして学校も建てられました。
カルロヴォは多くの教育者、公人、寄贈者、芸術家、軍人、そして近代ブルガリアを築いた人々の生誕の地です。