パナギュリシテの町は、古代から居住されている地域で発展しました。先史時代の遺跡、鉄器時代の定住とトラキア人の定住の跡が見つかりました。
この地において、町は15世紀頃における周辺の集落と、中世の要塞であったドシュコフシェニンとクラセンを基盤として発展しました。パナギュリシテの町に関する最も古い情報は、1576年のトルコの記録から見つかりました。16世紀のマケドニアの難民と、ヤンボル地方のヴォイニカの村から来たの200家族という2つの再定住、そして地域の住民が、その後数世紀の住民における民族的構成を確定させました。オスマンの奴隷時代は、パナギュリシテは軍隊駐留の地であり多くの特権を享受していました。
伝説によって15世紀末のオスマン帝国のバルカンの侵略後の激動の時期と、町の発展が結び付けられました。町の名は川の土手で開催された小さな催しからつけられました(パナギュリとはブルガリア南西部の言葉で催しと同義語です)。奴隷時代はトルコ語のオツキオイという名前も使われ、カメングラード(訳:石の町)という名前も見つかりました。
18世紀後半と19世紀初頭には、パナギュリシテは多大な経済的・文化的繁栄を享受しました。
パナギュリシテ周辺では古代と中世の証人となる考古学の遺跡が複数あります。1949年には町の近くで世界的に有名なパナギュリシテの金の宝が見つかりました。パナギュリシテはブルガリア解放とそのための戦いの中心地の1つです。
パナギュリシテは名前であり、オスマンの奴隷制からブルガリアを解放する国をあげた戦いの象徴でもあります。四月蜂起では町は4つの革命組織の本拠でした。ここで人民は数世紀におよぶ奴隷の主人と、最も大きく組織化された軍として戦うために蜂起したのです。蜂起の決断が下されたオボリシュテは、ブルガリアの議会政治と民主主義の先駆者でもありました。パナギュリシテ地方では、使徒のジョージ・ベンコフスキー、パナヨット・ヴォロフ、ジョージ・イコノモフ、編集者のザハリ・ストヤノフ、国家的英雄になった地元のパベル・ボベコフ、ナイデン・ドリノフ、ポープ・グルノ・バンスキー、ジミター・コクレフ、ポープ・ナデルヨ・イワノフ、そしてパナギュリシテのヴォイヴォダイワン・パルプロフ(オルチョ)、イリヨ・ストヤノフ、そしてクロイチョ・サマホドフが、革命組織の才能を生かしました。伝説の少女ラニャ・クヤギンヤの手柄は、戦いの象徴となりました。パナギュリシテ市民は自由を愛する魂をもって国家解放と社会正義の戦いへと参加し、1100以上の尊い犠牲が払われました。
歴史地区「オボリシュテ」はパナギュリシテから北西7kmの位置にあり、スレドナ・ゴラの内部に隠れています。1876年春にはここで最初のブルガリア大国民議会が開催されました。1982年に建てられた記念碑には参加者の名前が刻まれ、ブルガリア人たちの純粋さ、英雄伝、そして自己犠牲の記憶を残しています。毎年四月蜂起の記念日にはその名誉を称える国の祝典がありますが、5月2日の全国礼拝の日にはブルガリア中から人々がオボリシュテの前に集まります。